NOTE ノート

「いのち」が「わたし」を生きている

東北大震災から12年

 2023・02・08


 
 あの時、直ぐにでも駆けつけたいという衝動に慄きながら、(東京から)たどり着けたとしても足手纏いになるだけだろうなど、様々な理由を探して、現地に赴くことができなかった自分。それを正当化するかのように、妊婦さん向けに放射線情報をブログで発信を始め、多くの妊婦さんの相談に乗っていた自分。

 情報は広く拡散され、たくさんの「ありがとう」をいただいたけど、最も刻まれている言葉は、日常を奪われた妊婦さんからの、「先生は、暖かい部屋で、美味しいコーヒーを飲みながらこの文章を書いているのでしょうね‥」だ。

 今でも、家族や大切な方を喪った方、不自由な思いで過ごされていた方、そして、無力に直面した医療者たちの声は、あの時の自分に立ちもどらせる。そして、動けなかった自分を責めている「わたし」の存在を感知する。普段は深奥でおとなしくしている「わたし」は、時にむくむくと起き上がってきて、こうして自分を占拠する。

 不思議なことに、死者1万5859人など、集合的な「命」を扱っている情報からは、思考停止となるのか、「わたし」を感じることはない。ところが、そこに個の生活や、思いなど、その人となりが、「いのち」の物語りが介在すると、途端に「わたし」は覚醒してくる。

 同じ“INOCHI”でも、生存を前提とする、期間限定で可算名詞である漢字の「命」と違い、不可算名詞のひらがなの「いのち」は、「からだ」「こころ」から「たましい」までを包摂し、拡がってゆく。そう解釈すれば、死者にも「いのち」が流れていることになる。グリーフケアで語られるのは、語り手と、語り手を通した喪った者の「いのち」である。その物語りが「わたし」を発動させると、連綿と紡がれてきた「わたし」の「いのち」とも共鳴しはじめる。そして、「わたし」は喪った「いのち」に合流してゆく。

 東北大震災から12年、コロナ禍や、ウクライナ問題、環境破壊などで、希望の光がなかなか見えてこない昨今、自分に与えられた「命」の時間を、つながる「いのち」が注がれた、そのままの「わたし」とともに、丁寧に生きてゆきたい。

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                              竹内 正人