NOTE ノート

平成27年度 大東文化大学文学部教育学科 秋季定例会
「今生きていること ~命って当たり前ではない~」

平成27年10月23日

- 後半 -


【竹内】では後半は、もっと…子どもの死のことを。その次は望まれない妊娠とか、中絶のこととか、そんなお話をしようと思います。   
  日本では妊娠22週以降に産まれることを早産といいます。21週までは流産です。命というのは相対的なもので、昔は妊娠28週未満が流産だったんです。今とは7週間も違っていました。妊娠28週っていうと赤ちゃんは1キロ、千グラムで、このくらいの大きさです。今、妊娠28週、1キロで元気で産まれたら、新生児医療のおかげでほとんどが助かります。それも障害なくね。医療がなくでも、育っていけるとしたら、早くても34週ぐらいからでしょうね。34週でも少し苦しいけど・・・。だけど、28週は医療がかなり発展しないと助からない週数です。だから昔は28週未満が流産だったんです。妊娠27週で産まれてくるでしょ。それでも産まれてくると「オギャー」と泣くんです。まだ小さいけどちゃんとした人間です。それでも流産なのでその子は救わなかった。救えなかったしね。そのまま死んでゆくのを見てゆくしかなかったんです。それがわかってたから、赤ちゃんが泣いたら、お母さんに聞こえないようにって、口をふさぐことが多かったといいます。

 ところが、医療が進んで、28週の赤ちゃんが助かるようになると、命のラインは24週に4週間も前倒しになったんです。流産は23週までが流産です。今はそのラインが22週になっています。つまり今は妊娠21週6日で産まれると流産でそのまま見送ることになるけれど、1日たって22週0日になると助ける対象になるんです。22週といっても400g台で500mlのペットボトルより小さいくらいです。22週で障害なく助かる子もいるけれど、やっぱり22週だと亡くなることも、助かっても何らかの障害が残ることも多いです。簡単ではありません。この命のラインは流産と早産のラインだけでなく、中絶にもかかわってくるんです。つまり流産域の子は助からないという理由で中絶が法的に許されるんです。28週がラインだった頃は27週まで中絶できました。今は22週がラインだから中絶は21週までです。でも21週って300gくらいで小さいけど、やっぱりちゃんとした人間です。「救う」「助ける」が仕事なのに、どうして中絶をしなくてはいけないのかとかなり苦しみました。そういう状況とどう折り合いをつけていったのか。後でそんな話もできたらと思います。

 これは妊娠21週に双子の赤ちゃんです。双子は双胎(そうたい)、三つ子のことを品胎(ひんたい)、四つ子のことを要胎(ようたい)というのですけれども、要ってかなめという、必要の要です。僕の専門が多胎妊娠だったので、双胎もたくさん診ていました。双子を妊娠していたこのお母さんは21週で破水してしまいました。21週で破水だとこれもう…助からない。仮に22週を超えたとしても双子だと難しく、仮に生き抜けたとしても障害が残るのは免れない状況でした。上にふたりのお子さんがいるご夫婦は、ふたりとも障害となると、育ててゆくのは難しいと、双子ちゃんをあきらめる決断をしました。そして、22週になる前日に陣痛をつけ出産しました。形式としては中絶です・・。中絶が認められる最後の日でした。21週だと赤ちゃん泣くんです。泣くけれども助けられない・・。ねえ・・・。いつものように、ふたりを大切に温かいタオルに包みました。そして、ふたりは穏やかな表情で、お母さんの胸の中で命を終えたんです。ご夫婦は「ごめんね」って言いながら、ふたりを見送りました。

 ケアがされなかった頃は、こういう出来事が起こった次の妊娠では、お母さんは別の病院へ行くことが多かったですね。なかったことにされた経験を思い出してしまうのが辛いことも理由だったのだと思います。それが、ケアをするようになってから、多くの方がまた僕のもとへ帰ってきてくれるようになりました。そのときのことをよく知っているからです。こうした悲しみを共有したことで関係性が育まれたからでしょう。死を関係性の観点から分類してみる、一人称の死、二人称の死、三人称の死があります。一人称の死は自分の死だからよくわからない。でも死に方は生き方とすれば、自分が今とう生きているのかの延長かもしれない。二人称の死というのは「YOU」の死です。親だったり、兄弟姉妹だったり、パートナーだったり、子どもだったり、恋人だったり・・。三人称というのは、「He、She」。僕が現場で見ているのは三人称の死ですよね。日々、ニュースで報道されている、事件事故、シリアやイスラム国が関連する死も三人称の死にあたります。アメリカの誤爆で病院や学校が爆撃されて現地の多くの人が死んだニュースでは、「あぁ、ひどいよな・・」とか思っているけど、自分とは関係ない三人称の死だから、悲嘆な感情までは出てこない。三人称の死では、どれだけ悲惨であっても、本当に自分の心の奥底まで揺さぶられることは少ないかもしれません。それは、自分の目の前の大切な人が亡くなってゆく二人称の死とは根本的に違うわけです。では、自分の診ていた子どもやお母さんが目の前で亡くなってしまった。これは三人称の死ですけど、そのときに医療者としての自分はどう思い、どう振る舞うのか。そこは患者との関係性が大きいのでしょう。ただ、ケアの意識がなければ、どんな状況でも三人称の死のままなのかもしれません。作家の柳田邦男は二人称まで行けなくでも、そこはせめて2.5人称の死としてとらえてほしいと提唱していました。それはそうだよなって、僕も思います。

 このお母さんは、双子を亡くされた翌年に妊娠して、僕のところへ帰ってきてくれました。でもその時も20週でまた亡くなってしまったんです。僕のところへ来て、3人も亡くしたことになります。3人ですよ・・。中学1年生のお兄ちゃんと小学校4年生のお姉ちゃん2人お子さんも、3人目を楽しみにしていました。でもまたお腹の中で亡くなってしまった。今回は家族みんなで見送ることになりました。先ほどの休憩のとき、「お腹の中で亡くなったら帝王切開をするのですか?」と質問がありましたが、通常は帝王切開じゃなく、薬で陣痛をつけてお産になります。普通の病院だと、亡くなった子がお腹の中にいるとお母さんに何か起こるといけないからと、診断がついたら、すぐに入院させて陣痛をつけることが多いんです。でも、僕のところでは、すぐに入院してもらうことはありません。診断された直後は、ショックなわけです。真っ白になってしまいます。そんな真っ白なときに、入院して陣痛をつけられて出産をする。それは、夢の中の世界かのように、何が起こっているのかちゃんと認識できないうちにすべてが終わってしまう感じかもしれません。そういう状況にあるお母さんは、周囲から見ると、冷静に見えるんですね。「思ったより落ち着いてる」って誤解されることも多いです。それは真っ白で、感情が出てないから逆に冷静に見えるだけなんです。何もわからないうちにすべての処置が終わって、目の前から急に子どもが消えてしまったかのようです。退院して家に帰った後に、少しずつ感情が戻ってきて、その現実を受け入れられずにズトーンと落ちてしまう…。退院後に何が起こっているのかは医療者には見えません・・。うちの病院では、ショックの時期を少しでも越えてから事実と向き合ってほしいということ、そして、大切な子どもだからこそ、亡くなっても子どもがお腹の中にいる間に家族で食事へ行ったり、少しでも思い出づくりをしてもらいたいと、診断がついても多量出血や感染など緊急に対応する状況でなければ、その時に入院してもらうことはありません。だって産まれて、何日かすれば子どもは焼かれてしまうんです。だから、亡くなってからの時間をどう過ごすのかというのは、医学的な対応を超えて大切だと思っています。こういう意識は医療のなかに十分ではないんです。

 この子の場合、亡くなったことがわかってから5日待って、ふたりの子どもたちも時間がある週末に入院してみんなで子どもを迎えることにしました。診断したのは20週でしたが、亡くなってから時間が経っていたので、産まれてきた赤ちゃんは、かなり変性していていました。こう…手が曲がっていたり、臍の緒が首と足に巻きついていて、体も折れ曲がっていました。それでも、上のふたりの子にも手伝ってもらって、産まれてきてくれた赤ちゃんに巻きついている臍の緒をゆっくりとといて、曲がっている手と足を丁寧にもとにもどして、臍の緒を切って、「おめでとう」って声をかけてお母さんの胸の上に乗せました。男の子でした。前の双子ちゃんのときから、ご夫婦とは長い時間悲しみを共有してきたから「おめでとう」って言える関係になっていたんです。誰にでも言える言葉ではありません。多くの場合、医療者はたぶん「出ました」って言うと思います。「今、出ました」とかね。「出ました」ですよ。「あっ、産まれてきたよ」なんて言えないんです。それは医療者にそういう意識が十分でないことと、患者さんとの関係性なんでしょう…、意識があって、関係性ができていれば、変性している赤ちゃんでも、おめでとう、かわいいねって、言えるんです。客観的にみたらもう…「どこがかわいいんですか」って感じかもしれません。でも、ずっと関わっていると、形ではなくなるんです。前半でカラダとその中にある自分は違うってお話ししたけど、こういう場合もカラダをこえて、そのなかにある魂のようなものを皆で見守る感覚なのかもしれません…、僕が「おめでとう」「かわいい子だね」と言うと、「ありがとうございました」って、自然に応えてくれました。ふたりのお子さんは神妙だったけど、怖そうじゃなかったな。

 こうした関わりが、その子に新たな息吹を与えるかのように感じます。もう十何年も前のことです。小さかったけど、温かいタオルで包んで、みんなで大切に迎えて、最後までみんなで一緒にいて、お別れして・・。その後、1ヶ月検診がありました。これが最後の妊娠だろうとわかっていたからか、ご夫婦はなかなか立ち直れないようでした。それは自然なこと。時間がかかるんです。急ぐことはないんです。検診からしばらくたって、亡くなった子を一緒に迎えたふたりのお子さんからの手紙をもらいました。中学1年生のお兄ちゃんは、「竹内先生、お元気ですか? 僕も元気です。ゆうきが生まれた時、先生があたたかいタオルで抱っこしてくれて、うれしかったです。ゆうきは苦しそうだったけど、かわいかったです。ゆうきが帰ってきたその夜、1時くらいまで起きてお線香とろうそくが消えないように見ていました。ゆうきは死んでしまったけど僕の大事な弟です。」と、書いてくれていました。臍の緒がからまって、窮屈そうで苦しそうだったけど、「ゆうき」くんという名前がつけられていて、かわいい弟って思ってくれていることが嬉しかった・・・。そして、小学校4年生お姉ちゃんは、「竹内先生、元気でがんばってお仕事していますか」って、小学校4年生ですよ。僕のところで3人も亡くなったのに、こんな手紙を書いてくれるって、すごくないですか、これ。「ゆうきが産まれるときにタオルを用意してくれて、ありがとう。最後に、おうちに帰るときに、手をふってくれてありがとう」、こういう時に何が大切なのか。何が相手に伝わるのかということを改めて教えてくれた手紙でした。やはり弟を丁寧に、大切に扱ってくれたということですよね。こうしたことは意識してやろうと思っていたのではありません。前に双子ちゃんを救えなくて、それでもまた僕のところへ来てくれた。今回もどうしようもなかったのかもしれないけれど、でも元気な子を産んでもらうことができなかった。それは僕にとってもとても悲しくて、申し訳ないことでした。とても、「これは医学的に、こういう理由でした」って自分たちを正当化するような説明はとてもできず、「ごめんね・・」って感じでした。グリーフケアという意識があってこそだけど、僕のその時の気持ちが、自然にそうさせたのでしょう。赤ちゃんを丁寧に扱うことしかなかったんです。お子さんから、こういう手紙をもらえたことで、本当に救われた感じがしました。何ていうかな、こうしたことが自分のモチベーションというか、その後の力になっていくんだなって感じました。こんなことないにこしたことはないのだけど、人間として避けられない悲しみに、きちんと向き合える関係、一緒に悲しめる関係。そういう関係があって、亡くした家族だけじゃなく、関わる僕たち医療者にも、そこからあらたな物語を紡げる力を授けてもらえるんだなって思いました。先端医療技術が発展し、これまでわからならかった疾患を診断できるようになったり、治らなかった病気が治療できるようになったことは素晴らしいけど、最後はやっぱり「人」としてどうなのかに落としてゆけないと、生きる力、たぶんそれは個々それぞれの物語だと僕は思いますが、そこへとつながってゆかない。最後は物語です。物語を紡ぐことができるようになれば、どんな状況でもまた開けてゆけると、僕自身は信じています。

 次のケースですが、これは38週の双子ちゃんでした。38週まで順調にきて…。ふたりとも体重が2500グラムくらいになっていた。あわせると5キロですよね…。前日の健診では元気だったのに、胎動がなくなったって次の日に来たら、ふたりとも亡くなっていたんです。ずっと健診で診させてもらっていた僕も「エーーッ」みたいな感じで言葉が出ませんでした。何の兆候もなく、原因も結局わからなかったんだけど・・・、家族は、「先生、なんで昨日帝王切開で出してくれなかったんですか。」と。そう言われて、医学的な説明をしても何も解決しないのです。そういうことを聞きたいわけではないですからね。自分たちのやり場のない感情、怒りを僕にぶつけている、そこで僕の言い訳のような説明なんて聞きたいわけじゃないんですよ。目の前でもう亡くなってるんですよ。何を言ってももう返ってこないし、昨日に戻ることもできないんです。昨日は、胎児心拍モニタリングも超音波所見も正常で、客観的な医療データは正常だったんです。翌日にふたりが亡くなるなんて予測できなかった。でも予期しないことが起こります。だからって自分の正当性を主張しても、むなしく響くだけです。何にもなりません。家族に何を言われても、僕には返す言葉がありませんでした。その時には、「わからなくて、救えなくて、ほんとうにごめんなさい」としか言えなかった。かつて、医療の中では、「ごめんなさいを言ったら裁判に負けるから」とか、「I'm sorry」は言っちゃいけないと言われてたけど、それは違うと思います。少なくとも日本ではね・・・・。だって、お母さんも家族も、みんな僕のこと信じてくれていたんですよ。でも結果として救うことができなかったんです。それは事実です。家族が「何で先生、昨日、わからなかったのですか?」って言うのは、当然のことなんです。だって本当にわからなかったんだからね・・・。このケースではないけど、「先生、どう責任とってくれるんだ!」と言われたこともあります。首根っこをつかまれて「子どもを返して!」言われたこともあります。医療者は、それは理不尽と思うかもしれない。でも、家族から見れば、大切な子どもや孫や家族を亡くした怒りや感情をどこにぶつけるかといったら、やはり診ていた医師しかないと思うんです。僕も、きちんと診ていて、医学的にはミスではなかったと思うけど、子どもは亡くなってしまっているんです。医学に限界があります。それでも家族の言われるように前日に帝王切開をしていればふたりとも元気で生まれてきたのは確かです。でも、その予測はできなかった。結果として、家族はあまりにも大きなものを失ってしまいました。そこで、僕はきちんと診察したんだなんて言っても、火に油を注ぐだけで、僕自身、自分の器の狭さにむなしくなるだけでしょう。家族ともかみ合うことなく、空回りするだけでしょう。そうなると、その後に訴訟となってゆくのかもしれません。そこは、本人、家族の感情ができるだけ出ること、出せることが、そして医療者がそれを受けられることが、お互いにとって一番大切なんだと思っています。そうは言っても、お母さん自身が感情を出すこと、そして、医療者が責められたときにそれを受容するのは、やっぱり難しいんですけどね・・・、この写真では、お母さんが亡くなったふたりを抱っこして、乳首をくわえさせて、授乳をしています。そんなことはする必要はないのかもしれないけれど、でもこのお母さんは抱っこして授乳したかったんです。

 お母さんと家族だけじゃなくて、祖父母やいとこ、みんな双子ちゃんを楽しみにしていました。それが、ふたりとも2500gを超えて、明日にも産まれるのかというときに亡くなってしまったんです。ベビーベッドも2つ買って、お洋服も全部揃えておいたのに…。そんな中で、産まれてきた子どもたちを一番素直に受け入れくれたのは、いとこの子どもたちでした。やっぱり、子どもは死に対する偏見が少ないからだと感じています。いとこのこともたちが、亡くなった双子ちゃんを「かわいい」って抱っこしてくれる。それを見た大人たち家族は嗚咽していました。「ほんとうに、それで将来、トラウマにならないのですか?」ってよく言われます。たぶん、状況によるのだと思います。会わせればいい、抱っこすればいいわけではないのです。そこが難しいところです。お腹のなかで亡くなった子どもを、兄弟姉妹やいとこにも会わせたほうがいいとか、会わせないほうがいいというエビデンスはありません。トラウマが残る場合もあるでしょう。ただ、亡くなっても大切でかわいい赤ちゃんと僕たちが扱えば、不思議とかわいい赤ちゃんになってゆくように感じます。かわいいって抱っこしてくれた子どもたちはその後も、亡くなった子どものことをよく話してくれるそうです。そして、その話しを聞いたお母さんは嫌な気持ちになるのでなく、むしろ、嬉しくて癒されるというんです。

 これは、妊娠9週の赤ちゃん。赤ちゃんはまだ2cm、3cmの世界です。心拍が止まった赤ちゃんがそのままの形で生まれてきてくれました。短い時間だったかもしれないけれど、赤ちゃんは与えられた命を全うしています。受精した時点でこの運命は決まっていました。だから、一つの命を産んだと思えるように僕はかかわりたいと思っています。この子は正常、この子は異常って、医学的にはそうかもしれないけれど、命のレベルでは、そんなレッテル貼りをする必要がないと思うからです。妊娠9週…、2㎝でこんなに綺麗に産まれてきてくることも、まずないんですが、この子は産まれてきてくれたんです。お母さんはこの時が39歳ではじめての妊娠でした。お母さんに子どもと会ってみますか、見てみますかと聞くと、「はい」と答えました。通常、妊娠9週の流産でそんな会話は普通ないと思うけれど、そのお母さんのそれまでの生き方を聞いていたから、そう聞いたんでしょうね。結局、この方はその後お子さんを授かることはありませんでした。それでもこの時に2cmのわが子に触れたことで自分のもとへ来てくれた命を感じることができたって、話してくれました。こんなことまでするんですかとも言われるけども、こうしたことはほとんどありません。その時の流れがあったからです。ただ、9週の流産だったらありえないという縛りはないということです。昔、年齢は数えの何歳と言っていて、お腹のなかの時間もカウントさせていたので、妊娠9週というと、受精から7週は生きていたことになるので、数えでいえば7週です。まあ、100年生きても、7週生きても、何億年という地球の時間からすれば、おたがいほんの一瞬にすぎません。それでも、どちらも生きていたわけです。だから、妊娠9週の流産であっても、今回はダメだったというよりは、この子が来てくれたことに何らかの意味があるって考えた方が、なんとなくしっくりいくように感じています。

 こんどのスライドは20週の人工中絶です。なんで望まない妊娠の人工中絶なのにお母さんが抱っこしているか。どうして…。もちろん無理に抱っこしてもらっているわけではありません。このお母さんにも今回の妊娠に至るまでにストーリーがあったからです。細かい話はしませんが、本当は産みたかった。でも、相手の彼のことと解決できてない事情があった。もっと早い時期から中絶を考えていたんだけれど、その事情に向き合えない中での中絶は彼女には難しかった。結果はどうであれ、そこに向き合わないとその先どう生きてゆくの?という事情がありました。医学的には「時間がたっての中絶は負担になるから・・」となるんですが、その状況、ストーリーを聞いて僕も一緒に待つことにしました。彼女は彼と、そしてその事情と向きあって、結局22週のラインに近く、20週になって、今回はあきらめると覚悟ができて子どもを迎えることになりました。そして、彼女の希望があって、中絶した赤ちゃんだったけど、おっぱいを吸わせて、お母さんに抱かれて、命を終えていきました。その後ろで彼女のお母さんも泣いていますが、この写真だけみると何でそんなことをするんですか…という感じですよね。ただ、どんな妊娠であっても、その背景にストーリーがあります。先に話したけど、「救う」「助ける」でやっている産科医として、中絶の仕事と折り合いをつけるのは、簡単ではなかったんです。だから、最初の頃は、「どういうことなの、あなたは! 命を何だと思っているの!」なんて説教としたことがあったと思います。ひどい話ですよね。その方には事情があるし、その背後には男性もいるのにね。女性だけに説教したって、なにも変わらないです。しかも説教された女性は、自分の中の罪悪感を抑えようと苦しんだことでしょう。当時の僕は、どうしていいのかわかりませんでした。自分の感情を出さず、仕事と割り切ってただただ中絶をすることもできなかったし、じゃあ中絶はしませんというわけにもいかなかった。それがグリーフケアをするようになってから、中絶でも意味と物語の視点を持てるようになって、そこに関わる役割を感じられるようになってきた。説教をすることもなくなりました。

 現場にいて、最近、問題だなって思うことのひとつは、妊娠していても誰にも相談することができず、病院にも行けずに、どこかで産んで、子どもをそのままにしてしまうケースが毎年あるということです。平成15年から22年の間に、虐待で亡くなった0ヶ月児は70何人いますが、そのうち0日児が67人です。この67人の子どもは、お母さんが誰にも言えずに、どこかで産んでそのままにされて亡くなった赤ちゃんたちです。そうなると子どもの命が失われることもそうだけど、お母さんも補導か逮捕されます。お母さんといっても、まだ中高生だったりすることも多いです。その子たちのその後の人生を考えるといたたまれなくなります。その背後にいる男性はわからずじまいで野放しです。「誰かに相談できなかったの、親とか!」って思うかもしれないけど、近しい人に相談できれば、こうはなりません。できないんです。そういう環境のなかで生きざるえない子たちがたくさんいるんです。誰にも相談できない子たちがいるんです。そういう子たちを救えないだとうか…、そうすれば、子どもも亡くならずにすむはずだし、お母さんが補導や逮捕されることもないんだから。

 日本では、妊娠22週以降になると中絶はできません。時々、妊娠22週を過ぎた女性がお母さんに連れられて「どうしておろしてください」と来院されます。それはできないんです。「どうしてできないんですか?」となると、「それは殺人になるからです」と、答えざるをえません。そうした子が中高校生だと、学校にわからないように、どこかで休暇をとり産むことになります。そして産んでも育てられない子はどうなるかわかりますか?日本ではその9割以上が乳児院に行きます。そして、3歳からは児童養護施設に移ります。そして18歳で施設を出ます。皆さんは当たり前のように感じるかもしれませんが、そんな先進国は日本だけなのですよ。どういうことかと言えば、海外では子どもは基本的に家庭で育つ権利があると考えられているからです。だから、こうした場合は養子縁組となります。白人の家族に黒人やアジア人やヒスパニックの子がいても、誰も不思議に思いません。アメリカでは普通のことなのです。家庭といっても血のつながった家庭でなくてもいいというのが、日本と海外の意識の違いです。お互い子どもは社会で育てているのですが、海外の先進国では子どもが施設で育てられることは、子どもを施設に閉じ込める社会のネグレクトと考えています。つまり大切なのは子どもは安定した家庭環境のなかで育つということです。考えてみれば夫婦だって血はつながっていません。家族とはつくるものという意識です。乳児院とか、養護施設の一番の問題はその子にとって親代わりがいたとしても、安定して決まった養育者がいないということです。養育者がかわることで、子どもには愛着障害が起こりやすく、やはり自尊感情が育ちにくいことがわかっています。あと、18歳で施設を出て自活してゆくって、今の時代、なかなか難しいでしょう。日本では問題も、社会から切り離されてきたという感じがします。 

 この写真のお母さんはまだ14歳でした。以前行っていた中南米ニカラグアで展開していた思春期プロジェクトで関わったお母さんです。ニカラグアはカトリックで、中絶が禁止されていますが、実は闇での中絶はあって、多くの女性が出血や感染で命を落とすことがあるそうです。妊娠がわかると学校も退学になるので、この子も妊娠したのかもとわかって誰にも相談できなかったそうです。それでも、一度だけ、近くの病院に相談へ行ったそうです。勇気を振り絞って行ったそうです。ところが、そこで医師に言われた最初の言葉が「どうして、もっと早く来なかったの!」「14歳なのに、どうしてセックスしちゃったの!」「避妊しなかったの?」と。そんな風に言う医療者も多いなと想像はつきますが、最初の言葉が説教はまずいです。結局この子は、その後病院に行くことはありませんでした。何で「よく来てくれたね」って、最初に何で言えないのだろうか。お説教をするにしても、関係性ができてからで遅くないはずです。その子がどんな思いで病院に来たのか、そこまでの想像ができないのかな・・・と。その子は、ひとりきりで自宅で産み落とすことになりました。したので幸い…(無事に赤ちゃんを産んだ写真がプロジェクターに写る)。

 日本で、こうした子を救える活動ができないかと3年くらい前からアクロスジャパンという団体と協働で、国際特別養子縁組事業を始めました。この活動を始めたことで、育てられない子を今は海外が中心ですが、国内も含めて、子どもを養育する家庭へつないでいます。僕らの養子縁組の特徴はオープンアダプションといって、基本的にはその事実を周囲にも子どもにも隠さないことです。日本の養子縁組はどちらかと言えば、相続に関連した普通養子縁組です。この場合、戸籍上は実の親とも親子関係が続きます。ところが、特別養子縁組では実親との親子関係はなくなり、養親が実親となるのです。日本でも特別縁組はありましたが、血を重視する日本では、特別養子でもらわれることでいじめられるといけないと、子どもには養子という事実を隠したままが普通でした。大人になって、何らかの理由でそれがわかった時に、アイデンティティークライシスのようなことが起こり、子は苦しみます。ですから、国内の養子縁組でも、僕たちは隠さないことを前提に、子どもにも物心がついたときに事実を伝えています。また、子どもを育てることができなかった実親との関係も大切にしています。養親は定期的に子どもの状況を報告する義務があるので、組織では縁組後の状況も把握していますが、実親が希望すれば、その子のことをきちんとお伝えします。すごいな~と、思うのは、自分が養子に出した子が、大切に育てられていることを知ると、実親が、自分が大切にされているようにも思えると、かわってくることです。
実親が、最初にアクロスジャパンを知るきっかけの多くが、携帯で「子どもいらない」「子ども捨てたい」などのワードを入れると出てきたからです。決して最初から養子縁組の仕組みを知っていたわけではありません。それで夜中にメールがくる。この1本のメールから、「連絡ありがとう。」「あなたをサポートします」と、女性と子どもと命をつなげてゆくんです。

 時間もなくなってきたので、逆境の話しを少ししましょうね。「大きな苦しみを受けた人は、恨むようになるか、優しくなるかのどちらかである。」という言葉がありますが、ほんとうにその通りだと思います。生きていると誰にでも苦しいこと、辛いこと、悲しいこと。そうして逆境があります。ない人はいません。ただ、その逆境をきっかけとして成長できる人がいれば、人や社会を恨みながら落ちてゆく人もいるということです。この写真にある木は、台風で根本から折れてしまった大木なのです。折れる前はすっと立ち姿が美しかった。でも折れてしまった今は昔の面影はありません。こうした苦しみに陥ったとき、医学ではトラウマ概念を中心に、どうすればPTSD(心的外傷後ストレス障害)を緩和できるかという考え方が中心でした。ただ、最近になって、大きな苦しみ、逆境の後に、PTSDになるのではなく、成長している人たちがいることに焦点が当てられるようになってきています。それをPTG(ポスト・トラウマティック・グロース)と言います。医学ではなく、生き方なので心理学の領域になります。苦しみの波に打たれつくして、逆境による喪失を完遂すると、その逆境に意味が生まれてきて、そこから新たな物語が始まり、これが成長につながるという考え方です。次にまた逆境があっても、一度喪失を完遂した経験があると、どれだけ意気消沈していても、時が経てば、乗り切れるだろうと漠然と思えてくるのです。これをレジリエンスといい、打たれ強さにあたります。折れてしまった木はもとの木には戻らないけど、折れたなりにまた別の味があります。折れる前にはなかった知恵も生まれてくるでしょう。この写真の木は、幹が根本から折れていますが、横たわっている木のあちらこちらから、新たな小枝が生えてきて、そこに青葉が芽吹いています。折れた自分を中から溢れでる逞しく生きてゆく力…。それを象徴する写真です。自己変革というのは気づきがなければ起こらないと言われます。気づきがあってはじめて人は成長するのです。喪失を完遂することから生まれてくる気づきは多いんです。皆さんも、何か苦しいとき、辛いとき。そんな逆境がきたとときこそ、「きたきた」としっかりと成長の波に打たれてみる。そんな感覚も持っていて欲しいと思います。 

 最後に海外での写真を紹介しますね。ここは中東のパレスチナです。パレスチナはイスラエルとの紛争を繰り返しているガザ地区とウエストバンク地区に分かれます。ガザには行くことができないので、ここはウエストバンクです。そのイスラエルとパレスチナの間にはお互いに簡単に行き来ができないようにと高い塀が築かれています。そのパレスチナ側で、母子手帳プロジェクトといって、日本の母子手帳のシステムを普及させようというJICA(国際協力機構)のプロジェクトが展開されていました。パレスチナで僕は周産期のグリーフケアの講演をしたんです。すると、現地の医師からは、平和の国、日本から来たお前に、死のことを話す資格があるのかって言われました。それは正直な思いなのでしょう。パレスチナのように死が日常にある世界と、日本のように目の前に死が見えにくい世界で話す死のリアリティはまったく違ってはくるでしょう。ただ、こういう違いあることが大切で、違いからお互いを理解しようとしてゆく。海外に出ると、日本人の同質性は通じないので、自分の思いをどう伝えるのか。日本であれば、「普通はこうでしょう・・」みたいな感覚かもしれませんが、海外では、私はこう思うがないとコミュニケーションはとれません。ただ、私とあなたが思うことが一致する必要はありません。それが多様性です。日本に生きていると、気づかないうちに考えかたや感じ方まで束縛されています。それは異質と接してみてはじめて気づくんです。

 皆さんも、今、自分はどう感じていて、何を考えて、これからどう生きていきたいのかという、あなた自身の思いを、ぜひ大切にして欲しいと思います。多くの方が教員になるんだと思いますが、どんな職に就くとしても、自分自身をそのまま受容できないと、人と関わるのは簡単でないと思います。僕自身は周産期の死というテーマに出会えたことにより、そうした思いを確かなものにすることができました。死と向き合うため産婦人科医になったのではないけれど、日々、働いて、様々な価値観に接していくうちに、自分の中に湧いてきた疑問や苦悩に気づき、そこから自分なりに行動できたことで、自分の物語を生きることができるようになり、結果として楽になってきました。どんな現場にも魅力があります。皆さんも、卒業をして、それぞれの現場に出て、自分の感性と対話しながら、行動し、自分の生き方を模索していって欲しいと思います。とりあえず講演はこのあたりで終わりとしたいと思います。ありがとうございました。(拍手)

【司会】竹内さん、ありがとうございました。それでは質疑応答の時間となります。質問や何か疑問がある方は、その場で手を挙げてください。

【学生】1年Aクラスのタダと申します。私は男なので、妊娠というものを経験できないのですが、産んでくれた女性に対して、男性として、どう接して、どう援助していくべきだと思いますか?

【竹内】すてきな質問をありがとう。僕も子どもが4人いるんですけどもね、自分でも奥さんにうまく接してないというか、援助できてないっていうか(笑)。子どもたちは、今大学2年、高3、高1、そこから8年離れて小学校2年です。最初の3人のお産のときは、夫というよりは医師とお産に立ち会っていた感じですね。医師としてその場にいると、夫として奥さんをサポートという感じもなく、それからそのままきちゃった感じがします。昔の立ち会い分娩がそうですけど、最後に産まれてくるところだけ見てね、「あぁ、よかった、よかった」みたいな感じです。実は大切なのは、いつ産まれるかまだわからない途中経過を共有できるかだと思っています。最初の3人のときはそれができなかったのが、自分の反省です。
   時々、思うのですが、今日話をした死もそうだけど、結婚や、妊娠・出産、育児って、自分で意識してないんだけど自分なりのイメージがあります。ただ、実際にその場になると、そんなイメージでは対応できないことが多い(笑)。たとえば聞いてあげることは大切ですよね。これはわかるんだけど、女性は妊娠すると同じことを何回も言うよ。これもイメージはあった。ただ、ここまで?っていうのは想定外でした。聞いてあげられないんです。僕はカウンセリングもやっているくらいなので他人の話だと、たぶんその場だけだからって聞いてあげられるけど、身内の話、それも奥さんが何度も同じ話をするともう聞いてあげられないんです(笑)。まずはパートナーの話をきちんと聞けるという人は、すごいと思っています。聞けることが最大の援助じゃないかなと思うくらいです。あと、たとえば育児の援助であっても、直接育児をするのも大切だけど、育児をしているパートナーをサポートする意識をもつことはもっと大切だと思います。やさしくできることで、パートナーは周りに優しくなれたりする。育児とか妊娠とか出産とかは、頑張っても周りからあまり評価されません。それまではがんばっていい資料つくって評価されたり、勉強していい点数をとったり、就職したり、入試に合格したりと、そうした対価や結果で、頑張るなりの報酬のようなものがあったけど、妊娠とか出産、育児はそうではないんですね。そうした状況を理解できて、繰り返しの話でも聞くことができる。それができれば、すごいなって思います。僕も振り返りになりました。ありがとう。

【司会】他に質問のある方はいらっしゃいますか?

【学生】1年の教育学科のコウノといいます。質問なんですが、流産によって亡くなった子どもの死を受け入れて、乗り越えていくことができるっていう…そういう良いケースの逆に、受け入れられずに乗り越えることができなくて、自分の想像では何か…子どもを二度とつくらないというような決断をしてしまったり、最悪、母親が自殺をはかってしまったといったような、そういった悪いケースもあったりするのでしょうか?

【竹内】そうですね、もちろんあります。流産とか死産だけでなく、普通のお産でも、産後はホルモンの影響もあってうつ傾向になります。幸い、僕が知っているケースで、流産・死産のあとに自殺された方は聞かないですがそれは数が少ないからかもしれません。産後うつ病で自殺する方、多分毎年いると思います。次の子はもう二度とつくらないとトラウマになる場合もあります。やはり、こうしたことに対して、講演で話させてもらったような、ケアの意識を持って周囲が接することができるといいと思いますが、これはマニュアルではなく、それぞれの医療者の人間力によるところが大きいのが難しいところです。学習すればできることではないからです。退院してからも、まわりからは「いつまでもそんな落ち込んでいてどうするの?」と、どちらかというと叱咤されることが多いのも、トラウマになる要因となります。妊娠さえしなければ、もうこんな思いをしなくてすむという気持ちも生まれます。ただ、それでも子どもは欲しいので、また同じことが起こるんじゃないかと不安を抱えながら妊娠する女性も多いでしょう。難しいですね・・・。質問、ありがとう。

【司会】他に質問のある方はいらっしゃいますか?

【学生】3年教育学科のコヤマです。お話を聞いていて、三人称の死のお話を中心にしていたと思うのですけれども、話を聞いていて結構ポジティブな印象というか、死に対して、死を経験することで変わったりとか、そういう印象を受けたのですけれども、一人称・自分の死や、大切な二人称、大切な人の死についてはどういう考えがありますか?

【竹内】そうですね、それは関係性にもよるんですけど、二人称の死、例えば親やパートナーや恋人の死もそうですが、同じ二人称でも、その方の関係性がどうだったかによっても違うので、僕自身もよくわかっていません。僕の場合は、父の死ですかね。涙は出てこなかったし、そこまで悲しくなかったんです。父との関係性は良くなかったんですが、それってどうなんだろうって、自分って冷たくて薄情な人間なのかなとも思いました。まあそうなのかもしれません。だから、どうなのまでは思わなかったけど、で三人称の死の感じ方とはかなり違いますね。三人称だったら、悲しい、あまり悲しくないは、人によって違うのが当たり前って思えるでしょうからね。一人称に関しては、僕もまだ死んでいないのでわからないんですけど、やはりいかに死ぬかは、いかに生きることの裏返しだから、自分が今どう生きたいのかにすごくフォーカスを当てています。たとえば、みなさんの年齢の頃は、十年後、二十年後という未来を見つめていたけれど、今の54と言う年齢は、まだ死ぬには時間があるとは思うけど、これからどう枯れていって「全う」するのかという意識がすでに芽生えています。いつ死んでもいいと思って生きようという感じなのかな・・。ありがとう。

【司会】他に質問のある方はいらっしゃいますか?

【学生】1年生のスズキと申します。先生がお産に立ち会う時にいつもしていることとして、気持ちの持ちかたなど、どういう感じで行っていますか。

【竹内】いつも医師として余計な介入はしないという気持ちをもっています。経過がよければ助産師さんがお産をケアします。医師は傍で見守るのが仕事です。お産ってね、いつどこでだれとお産するかでプロセスも結果も全然ちがってきます。リズムが大切です。だから、そのリズムを壊さないことが大切です。スポーツでもそうだけど、調子がよければ自然に身体が反応するでしょう。そんな感覚かもしれません。そのためには、できるだけ安心てお産ができる環境だとか、リラックスできる環境がつくれればいいなと。たいていの妊婦さんとは外来で健診しているので、関係性はできています。だから、何もしないけれど、竹内はここにいるよと存在がわかればそれでいいんです。何かあれば、先生も助けてくれる。それが力になることが理想です。緊急のときには技を使いますが、技はあるけど使わないのが一番いいですね。だから、お産した直後に「先生、ありがとうございました」というお産は僕にとっていいお産ではないんですね。それって産まされた感じでしょ。お母さんがお産に集中できると、その直後の関心は赤ちゃんにあるから「ありがとう」はないんです。それがいいかな。あと、産まれてちょっと落ち着いた頃に、お母さんをねぎらうことはもちろんだけど、お父さんをサポートすることも意識しています。「おめでとう!」ってお父さんとしっかり握手をします。お父さんって、なかなか父性がわいてこないんですよ。僕も今思うと一人目のときは。子どもがハイハイしてから、僕の方に来てくれ時に初めて実感したんです。だから、男性がお父さんになってゆくプロセスをサポートする。それが結果として、お母さんと子どもの幸せにもつながると思っています。できるだけ本人の力というのか自然の流れを尊重して、何があっても先生が傍にいてくれるから安心という環境になる、そういうことをいつも意識しています。

【司会】それでは質疑応答の時間を終わりにします。竹内さん、本日はとてもためになる講演をほんとうにありがとうございました。(拍手)運営委員が感謝の意を込めて花束を贈らせていただきます。竹内さん、壇上の中央にお越し下さい。ほんとうにありがとうございました。